大籠の製鉄


大籠の製鉄の由来

 大籠は近世初頭に砂鉄精錬業者(烔屋)が砂鉄と木炭を求めて移動していたが、大籠は山林が豊富で砂鉄の埋蔵地にも近接していたことから、烔屋が定着し集落を形成していった。この烔屋産業は藩政時代を通じて大籠の主産業となり、明治30年頃まで烔屋が存在していた。
 藩政時代の「安政四年大籠風土記御用書出」によると、大籠の製鉄の開始は永禄年間に遡ると記されている。当時、左沢屋敷の先祖佐藤但馬と検断屋敷先祖の千葉土佐が、備中国吉備の中山有木の別所に赴き、布留(のちに千松を名乗る)大八郎・小八郎兄弟を招聘し烔屋を開いた。千松兄弟が最初に烔屋を開いたのは大籠ではなく桃生郡であった。以後、千松兄弟は千松沢に定住し、この千松沢が兄弟の姓に由来していると伝えられている。
 慶長年間に千葉土佐は首藤相模と相談し京都に上り鍬の打方を伝授され、菊一・菊上・天下一の三銘を受け、鍬に打付ける免許を得て帰国した記録がある。
 土佐と但馬は備中から帰国後、千松屋敷須藤相模・祭畑屋敷佐藤稲葉・上千松烔屋佐藤肥後・中野屋敷佐藤丹波・上野屋敷沼倉伊賀・沢屋敷首藤伊豆ら六人と申し合わせ烔屋を興し、千松兄弟の指導を受けて荒鉄の興隆を極めていった。この八人は「烔屋八人衆」と称した。
 大籠の製鉄の由来は、文禄慶長の頃、烔屋は興隆を極めて、一日に千貫の鉄を生産し、豊臣秀吉に軍用鉄を、伊達政宗に岩出山築城、仙台築城用の鉄を差し出したとの記録がある。
 裁増坊物語に「千松兄弟は文禄元年に此地に来たり背の沢を見たて相模同意して開発しけり」と記され、おそらく大籠の烔屋は文禄から寛永頃逐次成立したものと考えられる。