屋須弘平 Juan José de Jesús de Yas
1846年(弘化3年)生まれ。幕末から明治に変わる時代に故郷の岩手県藤沢町を離れ、1874年(明治7年)横浜でメキシコ金星科学観測隊との出会いがきっかけでメキシコへ。そして終の棲家となったグアテマラで写真館を開く。
グアテマラ人ポートレート、建築や宗教的テーマの写真作品を残す。写真技術はグアテマラで習得し、日本写真創世期に名を残すことはなかったが、グアテマラでは高い評価を受けている。
Juan José de Jesús de Yas はクリスチャンネーム。
1917年(大正5年)没。
屋須弘平略年譜
・1846年(弘化3年)
12月27日、屋須尚安(蘭学・医術者)の長男として藤沢に生まれる
弘平氏は父親からオランダ語を教わる
・1864年(文久3年)
江戸に出る 叔父から漢学、真田信濃の侍医村上栄信から医術を学ぶ
横浜にてフランス人エームリエから医術、天文学をを学ぶ
戊辰の役のため帰郷途中仙台藩の軍傷病兵の手当
仙台藩メキシコの応援を求める際、スペイン語通訳担当
・1868年(明治元年)
藤沢に戻り医業を行う
・1871年(明治4年)
弟安平とともに横浜のフランス人の学校に入学
・1874年(明治7年)
金星の太陽面通貨の天文観測(日本最適)
横浜(野毛山)にて、メキシコ観測隊の通訳
・1875年(明治8年)
メキシコ観測隊長ディアス・コバルビアス氏に頼みメキシコに行く
10ヶ月の船旅
・1876年(明治9年)30歳
メキシコ国、ディアス氏に寄宿しメキシコ天文学校に入学
メキシコ革命勃発(4月)
・1878年(明治11年)
ディアス氏グアテマラ駐在公使に任命
ディアス氏の息子2人と一緒にグアテマラに渡る
エルブルヘル氏、アメリカ人キルデア氏から写真術を学ぶ
・1880年(明治13年)
グアテマラ市クリスト街に写真館を開設
・1883年(明治16年)
サンタ・クララ教会でキリスト教の洗礼を受ける
・1889年(明治22年)
日本帰郷のためグアテマラ国出国
14年ぶりに帰国
帰郷 母と姪タマキを連れ上京 写真館開設
高橋是清(後に日銀総裁、総理大臣)との出会い
再出国 通訳としてペルー・カラワクラ鉱山に向かう
・1890年(明治23年)
カワラクワ鉱山失敗 グアテマラに残る
・1891年(明治24年)
写真館開設
マリア・アングーロ嬢と結婚(カルメンの丘教会)
・1895年(明治28年)
古都アンティグア市に移転
写真館開設
1916年(大正5年)
重い病に臥す
松谷英吾氏・屋須喜三郎氏に病床の手紙を書く
・1917年(大正6年)
2月28日 アンティグアで死亡(享年72歳)
グアテマラの写真家 屋須弘平の手記
~波瀾万丈の生涯~ より
・1976年(昭和51年)
2月4日 グアテマラ大地震発生
屋須弘平の写真原板数百枚発見される
中南米歴史人類学調査センターで保管(700枚~900枚)
・1986年(昭和61年)
11月12日「グアテマラ・アンティグアを学び屋須弘平を偲ぶ集い」を藤沢町民センターにおいて開催
・1999年(平成11年)
11月23日 両磐地区美術展において「屋須弘平展」を藤沢町文化交流センターにおいて開催
・2004年(平成16年)
4月22日~5月1日 屋須弘平氏遺品取得のため、グアテマラ・アンティグア市を訪問 約160点の遺品を取得
10月30日~31日 「グアテマラの写真家・屋須弘平特別展」開催